秋雨 アレンジ裏話

あきさめです。ボカロとかの楽譜作ります。

皮肉骨『YELLOW RIOT』 小考

 

 

『YELLOW RIOT』 皮肉骨 feat. 重音テト・琴葉茜・葵

https://youtu.be/1vE_Jc6eyx8?si=2OJI72G-OJgM1PFv

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皮肉骨さんは「内容は少なく、飾らず素直に、作為をはっきりと」した音楽を目指すと宣言していらっしゃいます。
しかしこの新曲、『YELLOW RIOT』を何回か聴いていると、その単純ではない多層構造が (私の幻覚として) 見えてしまいました。そこで、私の"幻覚"を書いてみます……

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さて、この曲で特徴的なのはアウトロの英語である。解釈の余地もないほどに、差別を強く否定 (「Enough is enough.」) した発言である。未だに差別を受ける黄色人種の私たちは、恐らくこの言葉を肯定的に捉えるだろう。しかしその内容をよく考えれば、全く逆の意味を持ったものとなるのではないか。まずはこのことについて考えてみる。
文中の「160years ago」とは、アメリカ合衆国憲法13条(1865年批准)のことだろう。逆に言えば、この発言は13条批准から起算して160年後のものとも言える。その160年後とは、もちろん2020年代である。ここで敢えて確認したのは、これが2020年代という、今、我々が生きている時代の発言であるということだ。このことを念頭に次に進めたい。

さてこの13条は、言うまでもなく当時のアメリカの黒人奴隷の解放や、国内の奴隷制の禁止を定めた。留意したいのは、この奴隷は黒色人種であったことだ。当然のことであるが、次に進むためには重要である。これを踏まえて曲中の英文を再確認すると、これは黒人差別のみに焦点をあてて、「discrimination」の「expired」を主張しているのだ。身も蓋もなく言えば、黄色人種に対しては「expired」は適用されないのである。当然、もとの「白人/黒人」の構図から、「差別者/被差別者」の構図へと展開することもできる。そうすれば、黒色人種とともに黄色人種にも味方する発言に取れる。たしかに「If」以下の発言は「race」の語を掛詞的に用いて、この構図を示唆しうる。しかし、このような構図の展開は慎重に取り扱うべきである。その理由は英文の語り手から読み解ける。語り手はどの立場であろうか。少なくとも黄色人種ではない。とすれば、語り手は「モノクローム」の世界を見る「あいつら」である。当然「あいつら」の視界に黄色はない。ここから見れば、肯定的に見えた「If」以下の発言でさえ、「race」に黄色を含んでいる保証はないのである。

ここでまとめておくと、一見我々に味方する英文は、実は我々を差別することを認める、あるいはそれ以前に、我々への差別の無視や、そもそも差別を認識していないことを表すのである。巷では"愛情の反対は憎悪ではなく無関心"とも聞くが、それが適応されるのならば、この英文は我々が糾弾すべき言へと豹変するのである。

もう一つみたいのが信号機と背景である。背景は一面が赤い。この背景の赤色は、中央に描かれた信号機と結び付き、信号機における赤色となる。すると背景は「止まれ」、さらに言えば「立ち止まれ」という意味を含む。それは 、差別のある現状に「立ち止ま」って考えろというメッセージに他ならない。ここから問題となるのは、曲と共に進行するヒトである。灰色のヒトは白人と黒人の両方を指す。つまり黄色人種以外である。そしてこのヒトは、背景の赤色に反して前へ進む。それはまるで「止まれ」を無視しているようである。だからこそ、我々は注意を促す「黄色」の灯火によって彼らに意識させなければならない。ここで確認したいのが、我々自身が「黄色」の灯火である、ということだ。「あいつら」に注意を促すには、他でもない我々自らが「点灯」「発光」しなければならない。だからこそこの曲が生まれ、世に繰り出されたのだとも言えよう。

ここまで述べてきたが、一つ課題が残っている。それは曲の終盤で鳴り響く「信号の音」である。要は「カッコー」のことだ。この「カッコー」が流れるということは、歩行者用信号が青色であることを示し、したがって灰色のヒトが進行しても矛盾しないのである。歌詞と信号機をより密接に結びつけるために用いたとも考えられるが、いささか強引な解釈に思われる。他にも考慮すべきことはあっただろうが、目下優先して考えるべき問題が生じてしまった。

以上、この曲の多層構造という私の"幻覚"を見てきたが、結局導き出した解釈は、初見に抱いたものと変わらないのである。少し語弊があるが、それは「無視されてきた黄色人種差別に対抗しよう」といったところである。言うなれば私は、わざわざ正規ルートから外れた遠回りをして、(あろうことか出発点に親切な案内看板があったのにも関わらず!)同じ目的地へと辿り着いたのだ。

拙文の最後に、くどいようだが今一度、これが私の"幻覚"であることを強調して筆を擱く。


【補足】
昨今のボーカロイド楽曲は映像とは切り離せない。それは多くの場合、世に繰り出される初出形が動画媒体だからである。この点において、ボーカロイド楽曲は、他の音楽ジャンルや、あるいは文芸作品とは異なる特徴を持っていることを敢えて述べておきたい。だからこそ、今回見たように、信号機や背景やヒトをそのまま歌詞と結び付けられるのである。